おいしさの安全基地

人間の「おいしさ」の基準は、半ば生物学的に決定づけられた、半ば学習の結果得られた、脳内記憶過程によって決まる…イギリスの心理学者ボールビーは、幼児が安心して新しいことを探求するためには、母親のような保護者が「安全基地」を与えることが必要であるという説を提唱した…「安全基地」である保護者に対して子供が寄せる親愛の情、そこから離れたくないという感情を、「愛着」と名付けた…安全基地を確保した上で、新しい領域を探索していくという幼児の発達過程のメカニズムと、味の学習の過程には共通点がある…おふくろの味があるからこそ、私たちは、様々な味を試してみることができる…

 ……「おいしさの安全基地」より抜粋
 現代の我々に「おふくろの味」は存在するのだろうか?2007年現在、乳幼児を抱える20代の母親がすべからく手づくりの料理を作っているとは言えない。そのとき食の「安全基地」または食に対する「愛着」とは、どのようなものがそれにあたるのだろうか?僕の愛読する季刊『現代農業別冊増刊』で「大人の食育」と銘打った特集があったが、まさに安全基地であるはずの母親を含めた大人、ひいては社会そのものが心許ない。
 その中にあって、僕は敢えて「食育」に潜む陥穽にはまり込んではいけないのかもしれない。それは現代の食生活なりを全否定しかねないからだ。むしろ現代の食のどこらへんに「安全基地」があるのかをこそ見出すべきと、茂木さんの話の中から考えを整理してみよう。
 しかし、おいしさを楽しむという、この主観的なことを、僕はどんなにかして生産者に、消費者に伝えていけるのだろう。食べるということが刹那的な営みではなくて、どれほど大切なことなのか、食を楽しむということが、どれほど正しいことなのか。と語ってしまうとこれも教条的の謗り…

まだ見ぬおいしさを求めて

 この間自分が、ちゃんと整理して頭に入れておきたい本が茂木健一郎さんの『食のクオリア』だ。2回読んだが、3回目は気になる部分の抜粋を以下に試み、それぞれに僕のいる世界からのランダムな感想を加えて、その抽出作業から、時間を使って何かが構造化されればと願う。

文明化した人間は、コンビニの棚にいけば食べ物や飲み物があるものだと思っている…生物は、お互いを食べ物にし合う…新しい食べ物を食べてみることは、食物の範囲を広げる行為である…食に関するネオフィリアは、人間が長い進化の過程で獲得してきた、新しい食の可能性を探ろうという本能の現れである…リスクをおかし自らの味の感覚だけを頼りに食べ物のレパートリーを広げてきた過程が、人間の食の歴史であるとも言えるのである…何気なく口にしている食べ物の味わいの中に、思い出すことさえできないような人間の長い歴史の営みが詰まっている。食べ物の歴史は、すなわち人間の生の歴史なのである…

……「まだ見ぬおいしさを求めて」より
 現代に生きる我々は、食べ物についてふつう、安心や安全を求めている。生産者はその裏づけ、公的機関による証明をすら求められている。その要求に応えることが責務であり、現代社会の根幹を支えている。食料安全保障とかも言われる。その結果が“コンビニの棚”といえるのだろう。新しい味覚を巡っては、相当にお膳立てされた中でしか、人はそれに挑んだりはしない。
 しかしここにひとつの大きなギャップが横たわっているのかもしれない。それは、茂木さんの記す“味の感覚”の歴史の集積としての“人間の食の歴史”の深さや広がりに反し、我々の食の経験は浅く、許容できる味覚の幅があまりに狭いという点だ。それはなぜだろうか?量としての食が充分で、リスクを侵す必然性がないからだろうか?
 思うに我々は折り合いをつけているのではないか?
 生産手段をもたぬ都市生活の身の上では、本当の意味で自らが食べるものを選択することができない。選択しているように見えて、実は選択させられているのだ。選択できない弱者としての消費者という社会的存在として、その弱者としての権利を、国家なりが擁護することで折り合いをつけている。その擁護とはすなわち賞味期限だったり、安全、安心の基準だったり食品衛生法だったりするといえばいいのだろう。
 そしてその権利としての消費者の要請がまた、食の均質化という現況を生み出している。生産者は様々な制度、消費者の求める味覚や品質に基づいて、その種苗から肥料農薬に至るまでを需要を理由に選択し使用し改良し効率化して量産する。
 こうした循環が今の食生活の貧弱さを形作っているといえる。ならばこうした隘路を知った上で、“人間の職の歴史”の深さや広がりを求め、より豊かな消費生活、より深みのある生産活動を展開することができないだろうか。我々は、こうした本来的とも言えるおいしさを味わう権利を行使するために、現代社会においても、応分のリスクを負うべきなのではないだろうか。

[考えごと]911
 今日は911の日。僕がこのblogを始めて間もない去年の今も911について書いたのだった。その頃を思い出してなぜかこの1年の時間がいとおしいキモチを抱いてしまった。昨日は通常国会所信表明演説で安部首相がしょーもないことを言っていた、ことを鹿児島からの帰りのヒコーキで読んだ新聞で知った。何がしょーもないかは今日の朝日新聞の論説のとおり。改革続行の使命により首相続投を自ら決め込んだその舌の根も乾かぬうちに、テロ特措法代案としての新法が通らなんだら辞めちゃるとのたまったそうだ。あれ?改革続行はどうすんの?とあきれる。というかその新法を通したとして、政治家安部さんに何が残るのだろうと訝りたくなった。
 そもそも911である。様々な人は言っているが、911以降世界の秩序を巡るパラダイムは大きく変化した。グローバリズム的な世界秩序を、世界の警察たるアメリカの覇権をベースに、力をもって守る。これを強要に近い方法で従わせるという単純かつ強引なやり方がまかり通るようになった。他方911によって、そのような手法こそが世界の多様性を踏みにじるという考え方が、より明らかに理解されるようにもなり、世界秩序を巡る議論は以前に増して活発になりもしたように思う。安全保障についても軍事外交だけではなく食料エネルギー環境の3軸による国家間交渉の必要性、南北問題を含む人間そのものを対象とした人間の安全保障論など、複雑にもなり、より高い次元での人間の知恵が試されるフェーズに行き当たっていると思える。
 であるから今回の安部発言が世界的にどれほどの価値をもちうるのかがよくわからない。諸外国の評価なしとなれば何をかいわんやである。本来自民党に期待されることは野党の多様な主張を老獪に取り込んで、常に国民の支持を得続けることのように思うのだが、これでは本当に政権交代になってしまうんじゃないか。僕は自民党は嫌いだが、こんなことの後の民主党政権が力を発揮できるとも思えない。もっと根本的な問題が二項対立として議論された上で政権交代して欲しいような気がしていた。
 ああ不得意な分野でムリがあるので話はここまで。

ローカルなルール

 文脈主義を越えたらいろいろ整理ができてきた。が、まだ横たわっているものがあるな、と感じたのは、昨日とある財団のKさんの話を聞いてからだった。
 まず、文脈主義のことを、Kさんとは別のある人は共同幻想と書いていた。主義主張宗教思想そのすべてが人間の営みとして紡ぎ出したものであり、それらは150億年の自然の営為からすればうつろいやすく、そのときその地域の人間たちが共同に抱く幻想なのだと。
 僕はこれを言い書きしている人をあまり好きになれないのだが、そうなんだよナと同意してしまったのも事実で、しかしなぁとの疑問符もつけてしまう。
 そこで自分が、文脈主義を越えてどうものごとを整理できたのかといえば、
 その整理は、食に関連して主義主張宗教思想などの色メガネによらず不変な風景や生き物たち、人間の身体が喜ぶほんとうのおいしさを考える視点を持とう、といったことだった。たかだか50年程度の過去から現在を談ずるのではなく、せめて500年とかの単位で振り返ってその時間分の未来を考えたり、食文化の持つ動的な変化の本質を、より世界を視野に置いて俯瞰しながら、自分の場所の文化を考えるようにすることも同じだ。ある意味でグローバリズム的な視点を持ち始めている自分自身を意外に思いつつ、それはそれで、このように消化できた自分がうれしくもあるのだが…。
 そんな整理ができてきたところにKさんの話が、ある意味さわやかに引っかかった。それは、グローバルなルールとローカルなルールを切り分けて考えてはどうかという視点と、この人が抱くローカルなルールのなかに含まれる共同体的な役割についてのイメージについてだ。
 僕にとって切り分けの視点は新しかった。両方受け入れる器量を持つということ。肩の荷が下りたような、世界を現実的に俯瞰すればなるほどそう考えないと歪むよなといった納得感。他方ローカルなルールについては、マナー、エチケットというより、モラルの匂い。このモラルということばに僕は多少の引っかかりを感じつつも、Kさんの話を聞いたあとに、さわやかで身の引き締まったような感覚を抱き、うん僕もモラルをしっかり持つべきかと柄にもなく考えてしまった。個人主義ではやはり立ち行かないのだろうかなぁ……

皆既月食

 今日は皆既月食の日であったそうだ。しかし東京はカミナリ、どしゃぶり。ああ残念とシゴト帰りの電車の中でケータイの天気予報にアップされてる各地からの月の写真を眺めていた。投稿者のコメントが「ひさしぶりに癒されました」「子どもが喜んでいます」など、ほのぼの系。
 やはり眺めたかった。
 太陽からの光を地球が遮ってできる影が月を隠す。その事実を眼前の月が証す。月も地球も太陽も宇宙空間に浮かんでいるんだよこれが事実だと改めて想像しようとする。それは物理的になんの感傷も形容詞もなしに。不変に。ささやかに、その大仕事が眼前に立ち現れ、その不変の天体の運行が、巨大な量感(が感じられるか)とともに、ささやかに終了するんだな…

流れる

 智に働けばカドがたつ、情に棹させば流される。だからアホになる……と桑田が唄っていた。う〜ん、そういうのならウケる唄になるのね。要は自分がアホになってるの、みんなわかってるんだ。微妙。こういう唄っていいよね、って思う人、ラクだなぁ。こうして結果ほとんどのことが流れていくんだよ。

buon-noson2007-08-26

 3月だっただろうか、金沢にいったとき、叔母と従妹に誘われて、金沢現代美術館に立ち寄った。旧金沢城のまん前、旧い伝統文物がたくさん集まるどまんなかにその美術館はあって、新鮮に驚いた。ここにこうした施設がなかったころの金沢はどうだっただろうかということも考えた。
 小京都とも呼ばれ伝統の美術や工芸が息づくところ。商売は保守的で、他所から来た人を容易には受け入れない。しきたりにうるさく、だからこそ昔ながらの伝統だけでなく、人付き合いの仕方から何までよく残る良さと、悪さも耳にする。自分の両親もこっちで暮らしていたが、この保守的な風土が嫌いで東京に来たのだと聞いたことがある。

 そのどまんなかに、ジェームスタレル、 エルリッヒレアンドロなどの先端の現代美術が常設されると、いったいコトはどうなるのか?
 この建物から透明な光の円柱が空に延びて、それが東京を通り過ぎてニューヨークやロンドンにつながっているようだね。ボクは叔母に感想を述べた。それだけでなく、周辺に色づく伝統的な風景も、輪島塗や九谷焼も含めて、何の予断なく、なんの事前説明もなく、権威付けもなしに、ストレートにすばらしい芸術として目に飛び込んでくるような気がする、と話した。
 それは現代アートが、人の意識というか、社会の定説などを等閑視することのできる存在であり、この国やこの社会で生きるための様々な文脈、常識、しきたりもろもろを通り抜けることができるからなのだと思う。そこに同居していることで、何かを考えないわけにはいかないような、そんな存在。ある意味暴力的なのかもしれないが、そのような存在は、必要なのだと思う。
 同様にこのほかの様々なことも、定まった解釈や見方に囚われずに俯瞰できる視点が求められているのだと思う。