エイサー

buon-noson2007-09-23

 これは先週のこと。僕の済んでいる相模原のとなり町の町田でエイサー祭りをやっているというので家族で見に行った。9月に入り凌ぎやすい涼しさになってきたなと思っていたら、この日はまるでエイサーを盛り上げるためのようにムチャ暑く、真昼間、アスファルトの道路いっぱいを埋め尽くした人だかりも手伝って、とてもビール(もちろんオリオン)のおいしい束の間を過ごすことができた。

 時間は確か午後1時ごろ。まだ始まらぬかと歩道を埋め尽くす観衆。4斜線道路は準備ばんたんと先陣を切って踊るグループが待機。照り返しもあって体感温度はゆうに40℃は越え、やっとかと開始のアナウンス。そしてしばしの静寂の後、高らかな太鼓の響き……。ぐぐっと、体の中からぞくぞくする感覚。耳慣れた節回し、三線の音色、合いの手の叫び……。
 思うに僕は“祭り”という感覚も忘れていたんだ。

 ここ4年ほど、毎年夏には、家族でどこかに出かけていた。沖縄も2度ほど。それは僕らにとって、どこかに楽しみに行くというほどの行為であって、どこかに帰るというのではない。田舎を持ち、毎年田舎に帰る人というのも最近は少ないのだろうが、仮にこのエイサーのように、いつも帰れば自分を待っているような“祭り”が心にしまってあるような人を、この時とてもうらやましく思った。
 現代は、祭りのように“いつも必ずあったはずのもの”を破壊してきた社会であった。僕も父母は田舎を持つが、東京での核家族暮らしの第二世代である僕らは、心の中で、“祭り”のように、そのようにして失われてきた、様々な何かへの喪失感を、いつか取り戻したいと願っているのではないだろうか。
“おいしい村”も、煎じ詰めればそのようなことのような気がする。