おいしさは言葉で表せるか

言葉は、私たちの食という体験の、ごく一部分だけに張り巡らされた粗い目安のようなものである…とても窮め尽くせないほど無限に広がった味の質感の世界…言葉ことが、人間らしさの根幹をなすという根強い考え方がある。そのような言葉中心主義をとると…言葉にあえてしないことで、その感触の純粋さを保つ…

……おいしさは言葉で表せるかより
 言葉中心主義という主義があるのだと知ったが、どこかで「言説として語りうるものの総体を知という」というようなことを読んだことがあった。逆に言えばすべてのことは語り得るのだ、なるほどと思ったが、どうだろうか。
 僕が常々感じていることから言えば、語り得るとすることで様々にコミュニケーションがラクになるとは言える。茂木さんが指摘するように、食べ物のおいしさなど、どんなに言葉の修行を積んだ人とて、本来言葉で語り尽くすことなどできるはずもない。しかしコミュニケーションの利便となると、語り尽くせないことは問題ではなくなる。言葉にできることだけでコミュニケーションという手続きを進めることが重要になってくるのだ。
 しかし、手続き上わかりやすい、すなわちコミュニケーションが進みやすい言葉のみで表面上のコミュニケーションが成立したとして、その成立に要した言葉だけがすべてとなり、言葉を使う当人も、表現の努力を放棄してしまえば、世界は一気に短絡化の危険を孕む。本当は伝えきれていないという謙虚を忘れ、伝え合うべき何かを共有できてはいないという事実を忘れれば、世界は無味乾燥に近づいてゆくだろう。それは言葉で語れないものなどないという知と、言葉の誕生以前から機能してきた脳という比較から説明可能なのだということではあるが、言葉のことは、様々な要素がからむ問題なのでもう少し整理して考え続けよう。