ローカルなルール

 文脈主義を越えたらいろいろ整理ができてきた。が、まだ横たわっているものがあるな、と感じたのは、昨日とある財団のKさんの話を聞いてからだった。
 まず、文脈主義のことを、Kさんとは別のある人は共同幻想と書いていた。主義主張宗教思想そのすべてが人間の営みとして紡ぎ出したものであり、それらは150億年の自然の営為からすればうつろいやすく、そのときその地域の人間たちが共同に抱く幻想なのだと。
 僕はこれを言い書きしている人をあまり好きになれないのだが、そうなんだよナと同意してしまったのも事実で、しかしなぁとの疑問符もつけてしまう。
 そこで自分が、文脈主義を越えてどうものごとを整理できたのかといえば、
 その整理は、食に関連して主義主張宗教思想などの色メガネによらず不変な風景や生き物たち、人間の身体が喜ぶほんとうのおいしさを考える視点を持とう、といったことだった。たかだか50年程度の過去から現在を談ずるのではなく、せめて500年とかの単位で振り返ってその時間分の未来を考えたり、食文化の持つ動的な変化の本質を、より世界を視野に置いて俯瞰しながら、自分の場所の文化を考えるようにすることも同じだ。ある意味でグローバリズム的な視点を持ち始めている自分自身を意外に思いつつ、それはそれで、このように消化できた自分がうれしくもあるのだが…。
 そんな整理ができてきたところにKさんの話が、ある意味さわやかに引っかかった。それは、グローバルなルールとローカルなルールを切り分けて考えてはどうかという視点と、この人が抱くローカルなルールのなかに含まれる共同体的な役割についてのイメージについてだ。
 僕にとって切り分けの視点は新しかった。両方受け入れる器量を持つということ。肩の荷が下りたような、世界を現実的に俯瞰すればなるほどそう考えないと歪むよなといった納得感。他方ローカルなルールについては、マナー、エチケットというより、モラルの匂い。このモラルということばに僕は多少の引っかかりを感じつつも、Kさんの話を聞いたあとに、さわやかで身の引き締まったような感覚を抱き、うん僕もモラルをしっかり持つべきかと柄にもなく考えてしまった。個人主義ではやはり立ち行かないのだろうかなぁ……