おいしい村をよろしくお願いします


2011年はホントにいろいろなことがありました。
311の震災、原発事故では、被災された方のこと、自然の脅威、人災としての原発事故、
社会システムの嘘と限界、何もできない自分、頼り切っている私たち……
石垣りん詩編そのままに、私たちは、「やすらかに 美しく 油断していた」のでしょう。
悼み、嘆き、そしていろいろ考えさせられました。

いろいろ考えて、2012は「おいしい村」という仕事を始めます!
テーマは「つくる人と暮らしを結ぶ」、キーワードは「伝える」「結ぶ」です。
とはいえ、具体的な中身はこれからつくっていかなきゃいけません。

今日、ホームページも立ち上げました。
アドレスは http://oishii-mura.net です。
こちらの中身もこれからつくっていかなきゃなりません。

どうぞよろしくお願いいたします。

引越しします

しばらくこのblogを、僕の“おいしい村その2…walk Around”に引っ越します。
引き続きご覧いただけるようでしたら、お手数ですが

http://d.hatena.ne.jp/buonpaese/

にブックマークを直してください。すんません。
これまで、地域のことや生産者のことなどをwalkaroundに、考えごとをthinkaboutにとしてたんですが、どれもこれも一緒かなとも思えるようになってきたので、というか、またもとにもどすかもしれませんが…

おいしさは言葉で表せるか

言葉は、私たちの食という体験の、ごく一部分だけに張り巡らされた粗い目安のようなものである…とても窮め尽くせないほど無限に広がった味の質感の世界…言葉ことが、人間らしさの根幹をなすという根強い考え方がある。そのような言葉中心主義をとると…言葉にあえてしないことで、その感触の純粋さを保つ…

……おいしさは言葉で表せるかより
 言葉中心主義という主義があるのだと知ったが、どこかで「言説として語りうるものの総体を知という」というようなことを読んだことがあった。逆に言えばすべてのことは語り得るのだ、なるほどと思ったが、どうだろうか。
 僕が常々感じていることから言えば、語り得るとすることで様々にコミュニケーションがラクになるとは言える。茂木さんが指摘するように、食べ物のおいしさなど、どんなに言葉の修行を積んだ人とて、本来言葉で語り尽くすことなどできるはずもない。しかしコミュニケーションの利便となると、語り尽くせないことは問題ではなくなる。言葉にできることだけでコミュニケーションという手続きを進めることが重要になってくるのだ。
 しかし、手続き上わかりやすい、すなわちコミュニケーションが進みやすい言葉のみで表面上のコミュニケーションが成立したとして、その成立に要した言葉だけがすべてとなり、言葉を使う当人も、表現の努力を放棄してしまえば、世界は一気に短絡化の危険を孕む。本当は伝えきれていないという謙虚を忘れ、伝え合うべき何かを共有できてはいないという事実を忘れれば、世界は無味乾燥に近づいてゆくだろう。それは言葉で語れないものなどないという知と、言葉の誕生以前から機能してきた脳という比較から説明可能なのだということではあるが、言葉のことは、様々な要素がからむ問題なのでもう少し整理して考え続けよう。

おいしさと、脳のなかの感覚統合

…複数の感覚が統合される過程で、統合の対象となっている感覚からは類推が利かないような、新しいクオリアの次元が生み出されるのが、感覚統合のプロセスの本質…味覚に限らない。我々の感覚とは、既存の感覚の組み合わせが、全く新しい感覚の次元を生み出してしまうことで広がりを獲得している…おいしさとは、まさに、感覚統合の芸術なのである…素材を集めて、料理をするということが、まさに人間の本質のど真ん中にある営為であるように思われてくる…食べるという官能の世界の中にこそ、新しい体験の次元を求めてやまない、人間の尽きることのない探求心が潜んでいる…

……おいしさと、脳のなかの感覚統合より
 昔も今も不思議に思うことがある。それは人類というか、人間が何百年何千年も、常に新しいうたが生まれ続けることについてだ。量産される流行りのうた。歌詞も曲も、その基底に流れる主題は、人生46年も生きているので、ああ昔も今も若者の主題は一緒なのだなぁと思ったりもするが、それにしても節回しや楽器、その使い方、歌う人間の微妙な個性の違いで、やはり常に新しい。
 例えばここで自分は、音楽という長い時間の流れでその傾向を聴き取ると同時に、歌っている個人の音楽についての経験の範囲や嗜好も読み取ろうとする。それは、その音楽の新しさが歴史時間においてどのような経験の蓄積の上に成り立っているのか、またその個人の経験がどのような蓄積のされ方でそのうたにたどり着いたのかを類推するようなものだ。
 なぜこんなことを考えたのかというと、音楽についても、茂木さんの感覚統合の説明があてはまると思ったからだ。幼い頃聴いた曲のクオリアが、音楽だけでなく音についての様々なインプットの蓄積がその人の音についての経験であり、そこからのアウトプットは新しいクオリアを生み出す料理。そのようにして生まれた数々の音楽に囲まれ更に新しい経験が重層をなし、その追体験が再生産されていく過程が音楽の歴史。これはアートでも何でも、人間の構築するすべてのことにあてはまるだろう。

エイサー

buon-noson2007-09-23

 これは先週のこと。僕の済んでいる相模原のとなり町の町田でエイサー祭りをやっているというので家族で見に行った。9月に入り凌ぎやすい涼しさになってきたなと思っていたら、この日はまるでエイサーを盛り上げるためのようにムチャ暑く、真昼間、アスファルトの道路いっぱいを埋め尽くした人だかりも手伝って、とてもビール(もちろんオリオン)のおいしい束の間を過ごすことができた。

 時間は確か午後1時ごろ。まだ始まらぬかと歩道を埋め尽くす観衆。4斜線道路は準備ばんたんと先陣を切って踊るグループが待機。照り返しもあって体感温度はゆうに40℃は越え、やっとかと開始のアナウンス。そしてしばしの静寂の後、高らかな太鼓の響き……。ぐぐっと、体の中からぞくぞくする感覚。耳慣れた節回し、三線の音色、合いの手の叫び……。
 思うに僕は“祭り”という感覚も忘れていたんだ。

 ここ4年ほど、毎年夏には、家族でどこかに出かけていた。沖縄も2度ほど。それは僕らにとって、どこかに楽しみに行くというほどの行為であって、どこかに帰るというのではない。田舎を持ち、毎年田舎に帰る人というのも最近は少ないのだろうが、仮にこのエイサーのように、いつも帰れば自分を待っているような“祭り”が心にしまってあるような人を、この時とてもうらやましく思った。
 現代は、祭りのように“いつも必ずあったはずのもの”を破壊してきた社会であった。僕も父母は田舎を持つが、東京での核家族暮らしの第二世代である僕らは、心の中で、“祭り”のように、そのようにして失われてきた、様々な何かへの喪失感を、いつか取り戻したいと願っているのではないだろうか。
“おいしい村”も、煎じ詰めればそのようなことのような気がする。

なぜ、人と食べるとおいしいのか

…私たちはお互いが何を感じているかということは決して知ることができない…にもかかわらず、場を共有している人たちの間で、「食事が楽しい」というような気分が伝播していく背景には、感覚の壁をこえてノンヴァーバルなコミュニケーションを実現する脳のメカニズムがある…私たちの体験は、感覚自体と、その感覚がもたらす感情的効果に分類できる…アメリカの哲学者、スザンヌ・ランガーは、かつて、「感情に関しては、心の垣根はない」と書いた。私たちは、感覚の質感(クオリア)については、絶対的なプライヴァシー(私秘性)の壁の中に閉じ込められているが、その一方で、様々な感情的効果については、壁を越えて自由に交感できるのである…

…「なぜ、人と食べるとおいしいのか」より

 脳科学者ならではの視点だ。僕たちが普段あたりまえと思っていることも、実は当たり前ではないということ。茂木さんが他の本でも講演でも何度となく指摘しているが、同じ“赤い色”を見ていても、その“赤い色”はそれぞれに違う質感でそれぞれに届くのであり、そのそれぞれが全く同じであることはありえないし、どう違うのかすら、原理的に確認ができないという。なのにどうして、人は何かを共有した気持ちになれるのか、人の気持ちを理解できるのか。なぜ、人と食べるとおいしいのかと、その答えが脳の不思議なメカニズムに結ばれていく。
 皿に盛られた料理が五感にもたらす“感覚”。これは個々の主観であり共感できない。が、その食べたことにより生まれる“感覚”が生み出す“感情”、食事を共にする人がもたらす“感情”、食事する場が与える“感情”が、本人にとって好ましい、心地よい“感情”として相乗的に作用して、共食によるおいしさがいや増すというのが茂木さんの説明だ。そう考えると、いかにおいしい料理でもそれを食べるシチュエーションがミスマッチだったり、食べる相手が大嫌いな奴だったりと、リラックスできない状況で、本来おいしいはずの料理が台無しになることもある。人は感覚だけで食べる動物ではないということだ。
 それは楽しく食を共にする、心おきなく共にして食事がおいしい友がかけがえのないものだということでもある。僕の場合、それはおうちごはん、長くつきあいを続けてきた生産者の皆さんとの食事、ということになるのかな。それ以外はどうも最近だめです。

盛りつけの美しさとおいしさ

「美しい」ということを人間の生の根源に立ち返って考えてみると、そこには、触り、撫で回し、舐め、食べ、同化するという食の様々な要素が立ち現れてくる。美しく飾り立てられたものがやがては壊され、食べられてしまうというはかなさの中に、単に「見る」というのとは異なる美のあり方が立ち上がってくる…破壊されてしまうというはかなさの中に、生きるということの歓びと悲しみのエッセンスがある…造られてはやがて消えていってしまうものに対して、現代人はそれを直視するだけの覚悟ができているのだろうか?…

……「盛りつけの美しさとおいしさ」より抜粋
 散漫な言い方になるかもしれないが、例えば「クサい飯を食わされる」と言って牢獄のつらい食生活を喩えたりする。映画マトリックスではネブカドネザル号に同乗していたタンクがネオに「食えば元気になるぜ」と、ドロドロの液状化したげろのような食べ物を差し出す。人間の食料として育てられる家畜たちは、飼料として毎日毎日うす茶色の粉を食べ続ける。消毒液の臭いと長期間起臥す入院患者の体臭の中配給される病院食。空腹こそ最良の調味料とどんなメシでも文句言うなと居丈高なオヤジ。おいしい山の空気を吸いながら食べたおにぎりが最高のおいしい思い出……。
 盛り付けとはほど遠い状況で、人間はおいしさを見出すことが出来たりするが、いずれにせよその食べ物たちは胃袋に納まっていく。同化という言葉が示すとおりに、それは分解されて、身体に吸収されていく定めにある。破壊と同化の過程が一連の作業の線上にあって、食べ物はまさに食べられてしまうその直前に、美しく姿を整えさせられると言っていいのだろう。それは一流の料理人がワザを極めることも、僕の母親が「テキトーにやったのよ」と言いつつ皿に料理を盛ることも本質的には同じなのだろう。
 それらの料理すなわち食べ物は、一旦は殺された何がしかの生き物だった。その生き物の死骸や分泌物を、せめておいしそうに飾って、食べたい。それが盛り付けというものなのかと考えさせられた。
 一方、この盛りつけも均質化の世界では「おいしそうな姿」として要素が抽出され、同じような姿をしたファストフードが世界中で生産され続けている。一種の記号化が進んでいて、それは何千頭もの牛が飼育されるアメリカのフィードロットで、全く同じに栄養計算された粉状の飼料が配給されていく姿とも重なって見える。牛はおいしさを感じるか?逆に、人間はクオリアを識別できるというその特別な感覚を忘れても生きていけるか? 今の世の中、食べることも鍛え続けないと、知らず知らずのうちに家畜と同様になってしまう危険があるのだ。
 やがて壊されてしまうという、美しさに潜むはかなさを考えると、それは胸が締めつけられるような感覚を抱くが、均質化におぼれ油断が慢性化すると家畜同様、エサを食らい生かされるという、奴隷のようなそら恐ろしさに身が震えてしまう。
 消費社会という切り口で、つくり手と食べ手という分類で考えるとき、これをどう整理したらいいのだろう。つくり手は1日に何万人分にも相当する食べ物を生産し、食べ手は食料を求めただ単に街を渉猟しその日の気分で食をカネで買う。個々にみて、それぞれの中においしさが確実に存在していると思われるそのことで僕らは一見安心しているが、そこにはかない美しさや、食をいとおしむ心を辿る縁は通じているのだろうか。