盛りつけの美しさとおいしさ

「美しい」ということを人間の生の根源に立ち返って考えてみると、そこには、触り、撫で回し、舐め、食べ、同化するという食の様々な要素が立ち現れてくる。美しく飾り立てられたものがやがては壊され、食べられてしまうというはかなさの中に、単に「見る」というのとは異なる美のあり方が立ち上がってくる…破壊されてしまうというはかなさの中に、生きるということの歓びと悲しみのエッセンスがある…造られてはやがて消えていってしまうものに対して、現代人はそれを直視するだけの覚悟ができているのだろうか?…

……「盛りつけの美しさとおいしさ」より抜粋
 散漫な言い方になるかもしれないが、例えば「クサい飯を食わされる」と言って牢獄のつらい食生活を喩えたりする。映画マトリックスではネブカドネザル号に同乗していたタンクがネオに「食えば元気になるぜ」と、ドロドロの液状化したげろのような食べ物を差し出す。人間の食料として育てられる家畜たちは、飼料として毎日毎日うす茶色の粉を食べ続ける。消毒液の臭いと長期間起臥す入院患者の体臭の中配給される病院食。空腹こそ最良の調味料とどんなメシでも文句言うなと居丈高なオヤジ。おいしい山の空気を吸いながら食べたおにぎりが最高のおいしい思い出……。
 盛り付けとはほど遠い状況で、人間はおいしさを見出すことが出来たりするが、いずれにせよその食べ物たちは胃袋に納まっていく。同化という言葉が示すとおりに、それは分解されて、身体に吸収されていく定めにある。破壊と同化の過程が一連の作業の線上にあって、食べ物はまさに食べられてしまうその直前に、美しく姿を整えさせられると言っていいのだろう。それは一流の料理人がワザを極めることも、僕の母親が「テキトーにやったのよ」と言いつつ皿に料理を盛ることも本質的には同じなのだろう。
 それらの料理すなわち食べ物は、一旦は殺された何がしかの生き物だった。その生き物の死骸や分泌物を、せめておいしそうに飾って、食べたい。それが盛り付けというものなのかと考えさせられた。
 一方、この盛りつけも均質化の世界では「おいしそうな姿」として要素が抽出され、同じような姿をしたファストフードが世界中で生産され続けている。一種の記号化が進んでいて、それは何千頭もの牛が飼育されるアメリカのフィードロットで、全く同じに栄養計算された粉状の飼料が配給されていく姿とも重なって見える。牛はおいしさを感じるか?逆に、人間はクオリアを識別できるというその特別な感覚を忘れても生きていけるか? 今の世の中、食べることも鍛え続けないと、知らず知らずのうちに家畜と同様になってしまう危険があるのだ。
 やがて壊されてしまうという、美しさに潜むはかなさを考えると、それは胸が締めつけられるような感覚を抱くが、均質化におぼれ油断が慢性化すると家畜同様、エサを食らい生かされるという、奴隷のようなそら恐ろしさに身が震えてしまう。
 消費社会という切り口で、つくり手と食べ手という分類で考えるとき、これをどう整理したらいいのだろう。つくり手は1日に何万人分にも相当する食べ物を生産し、食べ手は食料を求めただ単に街を渉猟しその日の気分で食をカネで買う。個々にみて、それぞれの中においしさが確実に存在していると思われるそのことで僕らは一見安心しているが、そこにはかない美しさや、食をいとおしむ心を辿る縁は通じているのだろうか。