まだ見ぬおいしさを求めて

 この間自分が、ちゃんと整理して頭に入れておきたい本が茂木健一郎さんの『食のクオリア』だ。2回読んだが、3回目は気になる部分の抜粋を以下に試み、それぞれに僕のいる世界からのランダムな感想を加えて、その抽出作業から、時間を使って何かが構造化されればと願う。

文明化した人間は、コンビニの棚にいけば食べ物や飲み物があるものだと思っている…生物は、お互いを食べ物にし合う…新しい食べ物を食べてみることは、食物の範囲を広げる行為である…食に関するネオフィリアは、人間が長い進化の過程で獲得してきた、新しい食の可能性を探ろうという本能の現れである…リスクをおかし自らの味の感覚だけを頼りに食べ物のレパートリーを広げてきた過程が、人間の食の歴史であるとも言えるのである…何気なく口にしている食べ物の味わいの中に、思い出すことさえできないような人間の長い歴史の営みが詰まっている。食べ物の歴史は、すなわち人間の生の歴史なのである…

……「まだ見ぬおいしさを求めて」より
 現代に生きる我々は、食べ物についてふつう、安心や安全を求めている。生産者はその裏づけ、公的機関による証明をすら求められている。その要求に応えることが責務であり、現代社会の根幹を支えている。食料安全保障とかも言われる。その結果が“コンビニの棚”といえるのだろう。新しい味覚を巡っては、相当にお膳立てされた中でしか、人はそれに挑んだりはしない。
 しかしここにひとつの大きなギャップが横たわっているのかもしれない。それは、茂木さんの記す“味の感覚”の歴史の集積としての“人間の食の歴史”の深さや広がりに反し、我々の食の経験は浅く、許容できる味覚の幅があまりに狭いという点だ。それはなぜだろうか?量としての食が充分で、リスクを侵す必然性がないからだろうか?
 思うに我々は折り合いをつけているのではないか?
 生産手段をもたぬ都市生活の身の上では、本当の意味で自らが食べるものを選択することができない。選択しているように見えて、実は選択させられているのだ。選択できない弱者としての消費者という社会的存在として、その弱者としての権利を、国家なりが擁護することで折り合いをつけている。その擁護とはすなわち賞味期限だったり、安全、安心の基準だったり食品衛生法だったりするといえばいいのだろう。
 そしてその権利としての消費者の要請がまた、食の均質化という現況を生み出している。生産者は様々な制度、消費者の求める味覚や品質に基づいて、その種苗から肥料農薬に至るまでを需要を理由に選択し使用し改良し効率化して量産する。
 こうした循環が今の食生活の貧弱さを形作っているといえる。ならばこうした隘路を知った上で、“人間の職の歴史”の深さや広がりを求め、より豊かな消費生活、より深みのある生産活動を展開することができないだろうか。我々は、こうした本来的とも言えるおいしさを味わう権利を行使するために、現代社会においても、応分のリスクを負うべきなのではないだろうか。