美というもの

 茂木健一郎さんの講演録を聞いて思いあたることがあった。それは美というものの存在についてだ。
 まず、美というものは機能、性能というモノサシで計れるものではなく、また、美術作品の良さを評価するときに、その来歴や、作者の有名さ、もとよりその作品の価格を聞いて感じるものであろうはずもない。美というものは、他者によらず自らにとっての価値として立ち現れるもので、その中身は受け取る人により様々な存在だということだ。
 なぜこの当たり前のことに、改めて思い当たったのか。多少のムリを承知で、食を巡る様々な問題になぞらえたくなったのだ。
 機能性能の類は昨今のグローバリゼーションにまつわる様々な価値判断や世界共通のモノサシづくりや、食をモノとみなして糖度やタンパク含有率、農薬残留などの切り口を当てはめてそのモノの価値を評価しようとする考え方が符合する。これらのもたらす問題は言うまでもない、これらの基準や価値判断から取りこぼされる価値はどうなるのかということだ。
 また、食の物語性、地域とのかかわりや文化を云々する考え方は、美術作品の価値を他者からの評判を頼りに決める発想に似ている。これらは食というものをどう取り扱うかを決める際に如実に現れてくる価値観が反映される。自らの実感を放棄して、どう取り組むべきかやどう食するべきかを観念的に捉えようとする。思想宗教、昨今の国産運動や有機農業運動も、観念的な要素を備えている。茂木さんはここらへんの観念的なモノの考え方を否定している訳ではないが、“文脈主義”“脈絡主義”という言葉を使って、美とは遠いものであると言っている。
 さて、食は美とは同じではないから、同じ土俵ではないのだと決めてしまうと話しは終わってしまうのだが、僕は食というもののあり方を考えるときに、この茂木さんの整理の方法が応用できるのではと思っている。思いあたるのだ。
 食は機能性能だけでは決して語れない。そして文化や運動だけで語れるものでもないのだ。美がある。それは食卓上の美であったり、作物の美、風景の美であったりする。僕は機能主義に対する文脈主義がこうした美をも取り込んで農村の美しさを守る存在として共通の価値観を作りあげるのかと思っていた時期もあるのだが、どうもそうではないのだ。なぜかこうした美は、意識されながらも後回しにされてしまう。
 スローフード協会のカルロペトリーニは、食の快楽の追求は人類に与えられたとても大切な人権であると言い、スローフード運動は単なる地産地消ではなく、食に関わる人類全体の関係性の問題であると言う。僕はこのことばと美というアプローチの方法に改めて近いものを感じ取る。