機能主義、文脈主義を超えて

 食や農を巡っての有機農業運動や環境保全からの取り組みは、畑や田んぼの外側のことを問題にしてきた面がある。「外からの悪しき流入」を農薬や化学肥料も含めできるだけ排除して、本来の循環の中に畑田んぼを位置づけて、それを評価しようとしてきた。こうした中で収穫される農産物こそ本来の農産物としたものだから、その時点で有機農業が技術論から離れていったような気がする。
 これには農業基本法以来50年近い時代の評価が反面教師としてつきまとっている。
 農業において多収や良食味が実現したのは品種、土作り、肥培管理などのすべてにおいて、石油エネルギー依存の化学的手法、大規模を前提とするモノカルチャー的アプローチが普及したため。結果として環境汚染はおろか食の安全が犠牲とされた。これらの手法やアプローチを用いないで昔のような作り方をすれば収量や食味は低下するだろう、という合意が当然のごとく形成されていったのではないか。
 様々な自然由来の代替資材も民間レベルで研究実践されはしたが、低下する収量や品質をできるだけ落とさない工夫に留まり、かつ個々の技術を補完しあうような技術体系には至らなかったように思う。
 むしろ、手間がかかって量も穫れない農業を、割高でもいいから助けるべきだ、市場原理のなかで農家が安全ではなく量と経済を求めるのはとうぜんとばかり、市場を通さずに直接の取引を進めて悪しき経済市場主義を葬ってしまうことはできないかと、技術論とは別の動機が働いて、産直運動なども始まれば、さら農家の技術が停滞したのもやむない事情とは言えないだろうか。
 こうしたことが、文脈主義の陥りやすい問題点だと、僕は反省を込めて思う。科学や技術を至上とする考え方は、時に生命が危ぶまれる考え方を生むが、文脈に陥って世界を相対化できなくなること、科学が見えなくなってしまうこともまたおろかなことなのだ。
 しかし相対的で客観的かつ普遍的な言説は、いまのところ科学のほかには、うつろいやすい人間が編み出した民主主義というイデオロギーとか、世界宗教と呼ばれるキリスト教イスラム今日、仏教などの宗教。またはグローバル経済がもたらす世界の均質化しかない。残念ながら思想も宗教も経済も、千年単位の人類の叡智であるとはいえ、その時代の解釈によって人を搾取し殺したりもするから、完全とは言えないだろう。残念なことではあるが、科学を伴ったグローバリゼーション(機能主義)に、今は軍配が挙がってしまうのか。こうした文脈を超えた新しい世界観をもって、食を捉えることはできないものだろうか……。