風景、美ってなんだろう

 食と農を考えるポジションとして、風景と美を置きたい。
 食と農をそのことだけで根を詰めすぎると煮詰まってしまう。たとえば世界共通のモノサシは何かという宿題をもらって食なり農業なりそれぞれ単体で答えを捜していったら、食はファストフード、農業は貿易協定となったので、そこで運用されている約束ごとをクリアすれば何でもいいんだ、にそれぞれがなり、その網の目がザルだったから、偽装だの病気だの、誰も知らなかった広大なジャングルがハンバーガーの牧場になってしまったりと色々なほころびが出た。ので、環境に配慮、ISO、HACCPそしてトレーサビリティがやって来て、より高度な管理が社会的に求められるようになったし、リスク管理とその責任の所在について社会的な合意も形成されていった。
 これは良いことなんだろうなと、一旦は思いもするが、立ち止まって考えると、僕にはそれが、食なり農業なりの業界の中だけで、それぞれが偏執的にコトを複雑化させているような、異様な光景に見える。
 昔畜産関係の仕事に携わっていたとき、と畜場に何回か足を運んだことがあった。目の前で殺されていく牛を初めて目の当たりにしたときのショックも、時と共に薄らいでゆく“慣れ”という感覚を知り、人間は怖いものだなぁと思い、同時に逞しいとも感じたものだが、それと同じような構造が現代の問題解決の手法に連綿と横たわっていると思うのだ。食と農業がブラックボックス化している、と言えばいいのだろうか。
 僕は食や農業がなぜ風景や美と無関係になれるのかを考えたいと思う。