脳ミソに釣り糸をたらす

 ぼんやり考えていたのは絵と詩と食。
 描かない奴に何がわかるのかな、ってことや、今日作った料理から、ああ気持ちが開くってのはおいしい料理食べてるときなんだよな、って自分が思ったことでどういうことなのかってこととか。
 理想のない現実主義者ってのはいくらでもいるからね、それは最低ってことだからね…脳ミソに釣り糸をたらしてるんですよ…
 目の前で宮崎駿。子どもたちに何を伝えたいってのはないですよ、映画作るので精一杯、何を伝えたい、命の大切さ伝えてたいってんなら、それを言葉で書けばいいでしょう、そういうものはすべからくいかがわしいですよね……

 宮崎駿は取材中すぱすぱタバコを喫っている。
 論理でこれはこうだ、と何かを詰めていく作業は、自分の場合もう終わってるのかもしれないと思う。しかしそうすると、自分は何をすればいいのか。たぶん現実的には、論理で自分がアタマのなかで詰めたことを忘れないようにすること。これまでと同じつもりでいるとその詰めたはずの論理がまた、ボクの場合変化していく。それは循環して、だいたい何がなんだかわからなくなっていく。……う〜ん。
 そうしなくてもいい何かのツボにはまっているのにね。
 意味不明の展開失礼しかしどうもアタマん中を、もう少し壊していかないと、いけないんではないんではなかろうかと……
 そのなかで、千倉海猫堂?の主人であるそうな、の山口マオのことも思い出していた。彼は絵描きである。元気でいるんだろうナァ…

 あ、あと写真だな。絵と詩と写真、そんなもんが食と矛盾しないで共存していくような風景だな。