イメージを追いかけることの答え

 もともと絵ばかり描いていて、そんな自分が食の世界に入り込んでしまったのは運のつき。それでもなかなかにこの世界はオモシロイ。自分が頭を働かせるのを面白いと思ってしまって、今日まで来たような気がする。それは、この世界にも言葉にならない世界があるからです。10年も前だろうか、栃木で堆肥ばかりつくっている信末さんのことを思い出す。言葉にならない世界の存在に、信末さんに出会って気づいたのだ。
 30年も土と向き合っている。朝早起きして、畑に行って、作物を見て、土を見て、今日はどんなことをすべきかの答えを出す、行動する、昼になってウチに帰ってごはんを食べ、また畑に出て、段取りを繰り返す……。こうした一日の中にいて、信末さんは、言葉を発するだろうかということを考えた。それは、信末さんという人が、人と話をするときはニコニコいつまでもとめどなく話しを続ける人で、いい歳なのにホント夜中2時3時になっても止まらない。それでいて次の朝は4時とか5時にはしゃっきり起きて、シゴトをこなす。
 その話の内容は、たわいないもののあれば、深刻な者ものもある。が、脈絡が全然整理されず、思うに、心に浮ぶイメージがほとばしってるとしか言いようがない。僕は、こんな片々たる内容なのに、どうしてこの人はあんな立派な堆肥をつくるのだろう、あんな立派な野菜をつくるのだろうと考えていて、ああ信末さんは畑では孤独なのだということに気がついたのだ。
 ひとりで作物の、土の声を聞き、信末さんの脳は、言葉という経路を経ず手に、足に指示を出す。その繰り返しで、すばらしい土を、すばらしい野菜を生み出す。言葉を必要としない世界がそこにある。言葉や、ある種の決まりを自分に課して行動するのではなく、作物や土の状態を感じ取って、計算し、即行動で表現する。たぶん信末さんは、自分の農業を、まず理論ありきではなくて、自分の行動の結果として説明し跡付けようと努力しているのだ。とうぜん、こうしたい、ああしたいという未来のことも、とうてい言葉で説明しきれるものではなく、出来上がりの図面のようなものを頭に思い描いて、それをなんとか伝えたいという、別種の努力をする。
 自分の心の中の未来と、仲間と共有すべき未来がこのなかで錯綜してしまうから、人との関係は混乱する。しかしはっきりと、信末さんの心のイメージは存在しているのだ。これは大切なことで、僕が絵を描いていた頃の心の状態と全く同じだった。それは期せずして、常に付きまとう自分の心の問題と同じものだった。
 そんなことに気づいてから、僕はこの“食”の世界が楽しくなった。
 それは時に「空想から科学へ」という言葉になぞらえたイメージだ。真っ白い何も描かれていない画面に、何の道具立ても準備せずに立ち向かって、格闘することを決意し、結果として何かの形を生み出すことの大切さ。その何もない画面にこつこつと、他の何者でもない自分を打ち込んでいくことの積み重ね。ひとつひとつの事柄に予断をさしはさまずに、しっかりとした解釈を与えようとする努力。それらは、いまだ体系化されていない有機農業の技術にもあてはまったし、“食”という人間の営みに枠をはめず思考したいという欲望のようなものとも似ている。しかしなかなか理解されない問題も多く精神的につらいことも多いというか、ああ僕は精神弱いんだなぁと弱音を吐くこともままあったりする。