今日はスローフードについて

buon-noson2006-10-20


とあるブログで、学生とおぼしきコメントで、スローフードはお金持ちのものなのかなぁ、と素朴な意見を述べていた。お金のある国だからこその贅沢であると。そう思うと興味を失ったとあった。この意見にけっこう多くのリアクションが載っていて、そんなことはないよ、フェアトレードもやっているし、けっこうすばらしいことしてるんだよ、と全体に優しいトーンでイタリアの運動のすばらしさを語っているようだった。

僕の感じ方は学生君に近いのか、遠いのか。

日本の中で喧伝される様々は措き、イタリアというなんせ遠くの国のことだけに、けっこう冷静に眺められる気がして、その眺め方からは、この運動がイタリア北部、かつ都市部のインテリ層を巻き込んで、とっかかりとしてはワインブックからだったことが彼らの出発点を物語っていると見る。自分なりの言葉に置き換えると「徹底的な食いしん坊の集まり」。

それと、片足つっこんでいる身としては、かれこれ5年の変遷というか、組織内部の動きなどを知るにつけ、その組織の維持拡大宣伝の手法などが見えてきて、その勢い、リーダーの発想力や直感力、人材活用の方法や外部人脈の広さ、そしてPRのうまさなどに驚嘆する。さらにはカトリックの国としてのイタリア人気質というか、イタリア人らしさそのものと、スローフード運動の間に違和感距離感がない、さも当然のように話しふるまうイタリアの良質さが増幅されたような立ち位置の絶妙さに感心する。

このほか詩を読んだりうたを歌ったり、デザインやファッションにこだわりする芸術性の高さも含め、どこか高いところから世界を見下ろしていて、しかもその中には食べたり愛したり眠ったり、人と話したり議論をしたりの人間くささがぷんぷんしている。このあたりは昔読んだヘッセの『知と愛』の主人公、ゴルトムントにその風貌が重なってくる。すなわちヘッセの主題とした宗教と人間性の相克のようなものから生まれた運動のような見え方すらしてくるのだ。

ということで、きわめてヨーロッパ的、キリスト教的な世界観のなかで、彼らはまずヨーロッパののなかのイタリアを意識し、イタリア人らしい主張を世界に向けて発信した、マクドナルド的な価値観に、隣国がうじうじしていたのを横目に、一発一席をぶったような見え方がしている。その手練手管は、僕のとても興味を惹く部分だし、食というものの価値を食糧とか環境とかの観点からではなく、食卓から切り開いていった智慧の強さには舌を巻く。

他方この運動が僕らの住む日本からは遠く、全く別の歴史を歩み文化を育んできた国の、しかもその国の価値観一方のものの見方に世界が集約されていく姿を見るにつけ、驚嘆や興味もどこかで醒めてくる自分に気づいたりもする。ありゃ違う考え方が元になってるぜ、と自分のなかの誰かが指摘するのである。片足突っ込んでいる割に、他人事に見えることがあるのだ。同時代性という言葉があり、通時(時間軸で普遍)、共時(空間軸で普遍)というものごとの切り分け方で共通点を見いだしても、そこからは共通認識を確認できたとか、条約が批准できたとかの約束事程度のモノしか生まれ得ず、感覚が共有できなさそうなイメージが湧いてしまうのだ。

もしかして学生君も、そんな違和感を感受しているのかもなぁ、と。
もっとも今の自分は、彼らから学ぶモノも極めて大きいと思っているのだけど。


写真は2年前。とあるイタリア北部の農家の庭柱にあった日時計