食文化から見た地域の重要性について

buon-noson2007-06-11

 先週スローフードジャパン事務局から問い合わせあり、日本農業新聞のインタビューを準備してほしいと依頼され、思いつくままに書いてみた。島村菜津さんにしゃべってもらう予定で、日の目を見ないので。僕はこう考えている……

Q:
日本農業新聞の80周年キャンペーンとして、地域を見直す規格「田園立国」の中で、「食文化(仮)」から見た地域の重要性を訴えて行きたいと思います。そこで、スローフードジャパンさんの「味の箱舟」にも企画中で触れたいと考えています……

Q2:地域の伝統作物は今は重要だという機運が高まっていますが、なぜ大事にされなかった時代があったと考えますか。

 効率優先の社会基盤の整備が急速に進んだ反動として顧みられている地域の伝統作物、伝統食やその作法は、今でもまだほんの一部だと推定できます。
 大量生産、大量消費、大量廃棄の価値観が世界を席巻しはじめたのは20世紀後半、1950年代から。石油エネルギーに依拠した道路、船舶、航空すべての物流網の整備、冷凍保存技術、化学的処理技術の発達はもとより、スーパーマーケットに代表される大量販売による流通消費の形態が同時進行し、さらにはマスメディアによる大手食品企業の手になる加工食品が大量に流通する時代を迎えました。
 こうして完成を見た現在の食生活を一括して“食のファストフード化”と呼ぶことができ、これらは世界的現象です。農耕の発見(約2500年前)、コロンブスの交換(15世紀)、食品保存技術の発見(19世紀)に次ぐ第4の歴史的変化という見方があります。
 日本では1961年の農業基本法以降、国の施策として大規模単作化の生産方式が推奨され、この中には品種改良、農薬化学肥料の多投、大規模機械化、営農面積の集約化などが農家への価格政策を誘引策として推し進められ、農地や農村景観も含めた作り手自体の改変、農村(文化)の荒廃が急速に進みました。その結果としての農村の過疎、後継者不足という深刻な事態を招いているとも言え、これが大量流通の機構と合致し、消費地にもたらされる食品は単一で大量生産が可能なものに限定されるようになっていった歴史があります。“作る側”が“地域の伝統作物を大事にできなかった”背景です。
 また、この過程で都市部はおろか農村部も含め、70年代の変動相場制以降、先ほど述べた物流網・販売網の整備と相俟って、様々な保存食品、大手食品企業の輸入食品がコマーシャルに乗り隅々まで行き渡ります。50年代以降一貫して喧伝され続けた近代栄養学的な食生活指導も含め、伝統的食生活は健康に良くない、前近代的、非合理的との時代の合意が形成され、“食べる側”においても、地域の伝統作物を大切にできなかった時代った、と言うことができるのではないでしょうか。
 ただしこうした現象面だけで伝統作物を復活させるべきというような単純な問題ではなく、こうした歴史の過程で、人々が(作る側も食べる側も含めて)“食”に対する感受性を徐々に失っていったことの問題が極めて大きいのではないかと思います。
 生産者、消費者の双方を巻き込んだ食の歴史的な大変革の現代においては、私たちにもたらされる食品のほとんどは、いまや経済合理性が導き出す規格品、WTOに代表されるグローバルスタンダードという規格品となっています。その規格の枠内で育まれる、“人々の食への価値観”というものが、それぞれの地域の文化や記憶に根ざした食材、品種、味覚を締め出してしまうのではないかという危機をこそ、共に考えていかなくてはならないのです。この意味で現代の“食のファストフード化”の傾向が半世紀を超えて現在も続き、次世代に継承されていることが、より大きな問題を惹き起こしていると思われ、ここに問題意識を持って取り組む必要があるのではないかと思います。

Q3Q4:地域の伝統作物がなくなると、その地域以外の人々、その地域の人々にはどんな影響が出ると思いますか。

 地域の伝統作物の定義にもよりますし、失われるまでの時間の長さにもよりますが、私たちの世代は日本人として幸せなことに、各地に様々な伝統作物があることを知っています。そのような事態は想像が困難ですが、次世代に、まったくそのようなものが消え失せた場合を想像すると、“作る側”“食べる側”の双方に大きな変化が現れるのではないでしょうか。
 野菜の場合で言えば、農林水産統計に出てくるような品目だけが、北海道から沖縄まで画一的に生産され消費される世界です。水耕栽培、ハウス栽培などの技術もあわせ、消費者ニーズの変化に合わせて提供・販売される改良の進んだ(地域性のうすい)F1品種などの購入品種が合目的的(経済合理的)に選択・生産・流通・販売され、経済性のない地域は淘汰されていくしかないのではないのでしょうか。“作る側”から見て“地域”や“伝統”を購入の選択肢にできない以上、“作り手”から見て地域の伝統作物を失ってしまった以上、必然のことのように思えます。
 同時に、より大きな枠組みで、輸入の選択肢がますます拡大されていく流れとなるのではないでしょうか。
 また、生物多様性の観点からは、国土面積の7割以上を山林が占め、すなわち品種の多様性が保存されやすい環境を備える日本という固有の国土において、その多様な在来の伝統的な品種の存在が全く顧みられなくなるということは、世界にとっても極めて大きな損失になるでしょう。伝統的な作物とは、数千年来のヒトの営みの結果でもあるのですから、日本の文化の喪失と同義であるように思います。
 さらには、こうした現象面を、さきほど述べた脈絡で示すところの“食に対する感受性の喪失”という観点から述べるならば、決して大袈裟ではなく日本人の“食へのアイディンティティの喪失”に直結していくと思われます。それが徐々にではなく、世代単位で階段的に進むのではないでしょうか。

Q5:なぜ今、地域(特に伝統食や伝統野菜など)が見直されていると考えますか。

 Q2への答えが背景となり見直されていると思いますが、強調したい点は、伝統食や伝統野菜などを見直すことに盲目的になるのではなく、世界史的に大きな変動の時期が進行中、という歴史認識に立って、このように構造的に変化し続けている私たちの食生活、食文化、地域文化、伝統というものを、いまいちど考え合う、伝え合う、話し合うことが大切なのではないかという点です。
 伝統とは何なのでしょうか。地域とはどの範囲をさすのでしょうか。翻って食とは、私たちにとって何なのでしょうか。昔ながらの作物に伝統野菜というシールを貼って消費拡大を目指す、地域間競争をサバイブすることを目的として、新たな規格品を生み出すのではなく、作る側、食べる側との関係によって今後も変化するであろう地域の伝統作物の、その変化の関係性を、経済合理性を超えてよりよく保全することこそが大切なのではないかと思います。
“食に対する感受性”とは、味覚への感性も含めて極めて多様で、複雑な織物であり、そこから人の営みによって紡がれ、育まれる人類の叡智であり、すべての人が享受すべき権利なのですから。そのような“関係性の修復作業”のなかから、見直すべき食材、守るべき伝統野菜とはどういうものなのかが、見えてくるのではないかと思います。

……以上